こんばんは、麻乃ヨルダです。
今年に入ってからブログを毎日更新していて、8月に入ってパタッと更新が止まったので、ツイッターを見ていない方には心配をお掛けしたかもしれません。まぁ、ツイッターを見てくれていた方にもご心配をお掛けしたかもしれませんが……。
何があったのかというと、故人が特定できてしまう部分までは話せませんが、先日私の親族が亡くなりました。火葬も終わり、今は遺品整理を進めている段階になります。流石に忙しさと疲労もあり、この二週間ほどは文章を書く時間が取れませんでした。
突然の別れ
始まりは本当に突然の知らせからでした。昼下がりに電話が鳴り、「〇〇と連絡が取れない」と言われ、先にその人の家に様子を見に行っていた親族と合流。その人が住んでいる家の鍵は閉まったままで、窓の鍵なども全て閉められていたので中には入れず外から様子を見ることも出来ず。
家の合鍵を持っている人も到着まで1時間以上必要で、鍵を壊してすぐにでも中に入りたかったものの、物件の管理会社に確認をすると「鍵は壊さないでほしい」と言われ、仕方なく警察と鍵屋さんを呼んで待機。
到着した鍵屋さんが必死に鍵を壊さない解錠を試みるも無理で、結局鍵を壊すことに。鍵が壊れた後、我々はその人の無事を祈りながら突入する警察と救急隊の背中を見ていましたが、中に入った隊員たちが急ぐことなくゆっくりと中を調べ始めたことで、その先の運命を覚悟しなければいけなくなりました。
「まだ亡くなったと決まったわけじゃない」「何か事件に巻き込まれたとか」色んなことを考えながら、あまりにも長い十数分を過ごした後、隊員の方たちから家の中の状況説明を受けました。
「〇〇さんが浴槽で亡くなっていることが確認されました」
暑い真夏の昼下がり、汗を流しながら何もできずただ待つだけの時間を過ごし、最悪の知らせを聞いたあの無力感を、一生忘れることができないと思います。
亡くなった人はこのところ仕事に打ち込みすぎていて、定期的に会っていた人は「どんどん痩せていて心配していた」と話していました。亡くなった状況から見て、夜に風呂に入ったところで気を失い、そのまま顔が湯に浸かってしまい呼吸が出来ず亡くなったと見られるので、疲労による失神、クーラーの効いた部屋から熱い浴槽に入ってのヒートショックが起きた可能性は高いでしょう。
しかし、テレビなどではよく聞く死亡事故がまさか身の回りで起きるとは。亡くなった本人からしてもそういう意識だったかもしれません。どこか現実味の無い他人事と思っていたニュースが、地続きの現実であると思い知らされました。
死との対面
それから一週間は遺品整理等々でバタバタ。その間に家のこともやらないといけないので、自分の時間は全く取れませんでした。そして火葬の日取りが決まり、先日僕も火葬に参加してきました。
喪主が明るく振る舞ってくれていたので、葬儀の一連は和やかに終了しました。自分もまだ本当に故人が亡くなったという現実を受け止めきれておらず、どこか地に足のつかない気持ちで葬儀に参加していたので、暗い表情を見せずに居ることができました。
現実味が無かった理由としては、一度も故人の遺体を見ていなかったというのが大きいです。1日以上水に浸かっていた故人の遺体は損壊が激しく、警察の方などから「見ない方がいい」と止められていました。
故人の生前からの希望が「出来る限り質素な葬儀を」とのことだったのでエンバーミングもせず、棺に入れられた後も顔を見て対面は出来ませんでした。一度も遺体を見ていない故人とのお別れは、どうしても実感が湧きづらいものでした。
ですが、火葬が終わり焼かれた遺骨と対面すると、急に「本当に亡くなったんだ」と現実味が襲ってきて、悲しさが広がりました。本当の本当にこれが最後のお別れだと実感が湧いて、故人との思い出が蘇ってきました。
無理をしていたのにそれを誰にも相談せず、一人で逝ってしまった故人。「もっと話をしておけば」と思っても手遅れで、元気で生きていることは当たり前のことではないと思い知らされました。漠然と、老人になるまでどこかでずっと元気に生きていて、会いたいと思った時に会える人だと思っていたのは、ただの思いこみでした。
実家で共に暮らしている祖父母が高齢になり、あと何年一緒に過ごせるだろうと覚悟しながらの生活をしているわけですが、まさか祖父母より先に自分の親と同年代の親族が亡くなるなんて想像もしていませんでした。
「生きる」ということはただそれだけですごいことであると、改めて考えさせられましたし、この記事を読んでくれた方も、周りの人との関わりについて改めて考えてくれればと思います。いつ、どこで、家族や友人と会えなくなるか、誰にも分からないのです。「ああしておけばよかったな」と後悔する別れ方をしないようにしたいですね。
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